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2008年11月11日 (火)

『上田対談集』メモ(上)

数日前、自宅の本棚の中から、
『上田耕一郎対談集』(大月書店、1974年)をみつけたflair

まったく別の本を探していたのだけれど、
たまたま目に入り、「おっ」と手に取った。
上田さんの著書は古いものをのぞけば、
たぶんだいたい読んでいるのだけれど、
これは読んでいない本であった。

もう30年以上前の本である。
そして、私の生まれた年に出版されている(笑)。
かなり幅広い方々との対談集である。
これは読まねばなるまいと思い、さっそく読んでみる。

すると、面白い面白い。
まだ参議院議員になる前で、
赤旗編集局長と政策委員長を兼務するという
今から考えるととんでもないことだけど、
その時期のうえこーさんの元気っぷりが炸裂していた。

あと、「民主連合政府」の話題が多かった。
なるほどこういう雰囲気だったのか、と思った。


重要と思ったところに線を引きながら読んだのだけど、
そのなかから主なものをメモしておきたい。


前後の文脈も大事なのですが、
とくに解説なしでメモしていきます。



「ぼくは戦争中、カントばかり読んでいて、『純粋理性批判』を
ドイツ語で読んだり、カントの倫理学関係の本なども相当あ
さって読みました。なぜ、よくもわかりもしないのに、カント哲学
に打ち込んでいったかとうと、ひとつは、思索することの厳密さ
というものがあって、正確なものを求めていた気持に合ったの
ですね。もうひとつは、
きわめて倫理的なんですよ、彼の哲学
は。
当時、戦争の問題と自分の問題を考えると、最後は認識
の問題よりも生き方の問題であり、倫理の問題になってきた
んですね」(8P)

「『自然弁証法』では、自然は実在であるということからはじま
るでしょう。われわれ理科の学生というのは、実験するとき、
自然を実在だと思わなければ実験できないわけですよ。しか
し、哲学を考えるときは、そういうこととは別のことを考えてい
る。ところが
『自然弁証法』というのは、まことにきっぱり、自然
は実在であるという。ぼくは観念論の認識論をやっていたから、
なにが実在であるか、わからなかったけれども、とにかく、疑う
ことのできない真理に触れているのだという感じがありました
」(8P)

「そういう市民運動というのは、当時のとりくみとしては珍しい
ものだったし、成果も大きかったんだけれども、それを理論的
にまとめて、どこかに発表するとかいう仕事をしなかった。やっ
ぱり、それをしないと全体の運動にならない。
運動の経験とい
うのは、本当にそのなかから教訓を引き出して一般化する、
理論化する必要があります。それではじめて全体の教訓、財
産になるわけで、進んだ経験をどこかでやっていても、ただそ
れだけだったら、それだけのことに終わっちゃうわけですね
」(23P)

「論争というのは真剣勝負でね、書いたことにはすべて責任を
とらなければならないし、誤ったことを書けばかならずやられる
しね。
深く、多面的に考えぬくことになる。鍛えられますよ。だか
ら、いいことだと思いますね。論争というのは
」(24P)

「ぼくが感じていることの一つは、
創造的な理論活動ということ
になれば、どんな問題でも新しい問題と格闘しなければ意味
がないということ
ですね。そうしてはじめて、つぎこんだエネル
ギーが、マルクス主義の理論戦線に、小さな石であってもつけ
加えることになり、小さな前進であっても運動に貢献することに
なるわけですから」(26P)

「もう一つ理論活動の問題でいつも考えることの一つは、
問題
の系譜を自分のものにすること
です。レーニンが、理論家とい
うのはその問題の系譜をよく知っていることが非常に大事なん
だと言っているのがあるんですよ。
その系譜のなかではじめて
その問題に接近する態度と方法もわかるし、歴史的なパース
ぺクティブも出てくる、問題の重さというものもつかまえられる

だから、政策活動でも、理論問題でも、ある新しい問題があっ
たときに、それは今までのマルクス主義の理論史や運動史、
広くいえば国際的にも、それから日本の運動史、理論史のな
かで、どういう理論的、あるいは実践的系譜をもっていたかと
いうことをまず調べますね」(26P)

「ぼく個人の場合をいうと、
自分が感じるもの、考えるもの、疑
問をいだくもの、これを非常に大事にしなければならないと思う。
自分が感じたものを主観的に大事にするというのではなくて、
それが、ある客観性がある場合、それを追求する責任がある
ということです
。ただ、そういうアンテナや触覚が正しいもので
あるかどうか、運動の要請にこたえたものであるかどうかという
ことが問題ですが、そういう人間が、たとえばきみのいったよう
な、大衆の生活にも、運動の局面にもいつも敏感に理解もし、
感じもできる立場に身を置いていないと、正しいアンテナが働か
なくなる。それから、党本部のなかだけで仕事をしていると、よ
ほど自覚をしていないと一般の人たちの思想や感情と離れる
危険もある(笑)」(27P)

「教育も問題では、『科学と思想』四号の吉野源三郎さんと堀尾
輝久さんの対談の中で“なるほど”と思ったことの一つなんです
けど、国民の学習権というのは、具体的には子どもと青年の権
利のこと、おとなとはちがった子ども、古い世代をのりこえる新
しい世代の権利を保障することだというんですね。教育は次の
世代をにないうる人々をつくることでしょう。今の世代を乗りこえ
る人間にならなけりゃならん。そうだとすると、
本当の意味での
国民の教育権、学習権とは、前の世代を乗りこえうるような能
力を、新しい世代が身につける権利でもあるわけです
。もしもそ
れを古い世代が自分の枠のなかにこどもの教育を押しこめるこ
とがあれば、それはこどもの権利を侵害することであり社会の
発展そのものを押しとどめることにほかならないという問題にな
るわけで、深い問題だなと思いましたね。
 たしかにおとな、古い世代が新しい世代を教育するのだけれ
ども、
教育とは、われわれを乗りこえる力を新しい世代にもって
もらうことなんだというするどい自覚をもって
、それこそ民主主義
的ナ教育をやらないと世の中は発展しない」(35P)



明日はメモの(下)。





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