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2008年4月 2日 (水)

孫三郎・独創・感性

最近読み終えた本。


『わしの眼は十年先が見える-大原孫三郎の生涯』
                (城山三郎、飛鳥新社、1994年)


全国集会が行われる倉敷のアピール力向上の
ために読んだ本。倉敷の街といえば、大原家。
大原家といえば、やはりこの人、大原孫三郎(1880~1943)。

しかし、この大原孫三郎に、著書はない。
城山三郎氏のこの伝記風小説をとりあえず読むことに。

これは、おもしろい!
かなり事実にそくした本でもある感じなので、
いろいろと勉強になった。

父が社長だった倉敷紡績を、孫三郎が引き継いだのは
27歳のとき。それ以降、驚くべきバイタリティと
行動力で、会社経営を発展させると同時に、
多くの社会的事業への貢献をする。

日本の資本主義の歴史のなかで、
稀有な資本家であったことは間違いない。

大原美術館や大原社研、倉敷中央病院の
創設などは有名だが、ほかにも
知らなかったことがたくさんあった。

へぇ!と思ったのは、
1932年、満州事変調査のために来日した
リットン調査団の一部団員が大原美術館を
訪れ、エル・グレコをはじめとする名画の数々が
展示されているのに仰天し、このことが、
「クラシキ」の名を広め、戦争のさいに、
世界的美術品を焼いてはならぬと、倉敷は爆撃目標から
はずされたらしい、ということ。

また、1907年、岡山に師団が設置され、倉敷へも
一個連隊が配置される動きとなった。
町では、金が落ちることにもなるからと、
受け入れ派が大勢を占めた。
これにたいし孫三郎は、まだ30歳にもなっていなかったが、
若い女子工員を大勢預かる身として、
「町の風紀をみだすおそれがある」と、はげしく反対した。
結局、孫三郎の強固な反対を前に、町は受け入れを断念、
軍隊をもたない町となった。そのことも、空襲を免れた
一因としてあるかもしれないという。

たしかに、倉敷に空襲の被害はなかった。
岡山や水島はあったのに。
そうした理由を考えると、なるほど、合点がゆく。
あの古い街並みが焼かれずにすんだのも、
孫三郎の隠れた貢献、ということでしょうか。

大原美術館の名画の数々は、
児島虎次郎がヨーロッパで買い集めたもの。
それもすべて大原家のお金で。
「絵を買ってよし。金は送る」と孫三郎。太っ腹である。
もともと大原家では孫三郎の父の代から、
同郷の有望な若者たちに奨学資金を援助していた。
その一人が画家の児島虎次郎だったのだ。

また、自分の工場の女工たちの
労働環境を気づかい、さまざまな改善の手をうつ一方、
職場環境の専門的研究をすすめるために、
労働科学研究所をつくった話も有名である。

とにかく、大原孫三郎が残した
業績や精神は、いまも輝いている、といえるだろう。
いや、いまだからこそ、こうした孫三郎の
企業人としての社会的責任、社会還元の姿勢から、
学ぶことは多いはずだ。

とても元気の出る学びとなった。
そして、おおいに刺激を受けた。


さいごに蛇足(これは本とは関係ナイ)。
憲法25条はGHQ案にはなかった純日本製
であることはわりと知られているが、
その25条を憲法制定国会(1946年)の
小委員会で入れさせる役割を果たした
社会党の代議士の1人が、森戸辰男だった。
じつはその森戸辰男は、大原社研の研究員で、
大原社研の資金援助でドイツ留学をして、
ワイマール憲法やソ連憲法を学んできたらしい。

また、大原社研の初代所長は、高野岩三郎であり、
彼は、鈴木安蔵とともに、GHQに影響をあたえた
草案をつくった憲法研究会の中心メンバーだった
ことも、付け加えておきたい。

大原社研研究員の森戸が25条を生む役割の
一端を担ったこと、そして、戦後、この25条に
命を吹き込んだたたかいが、岡山で起こった
「朝日訴訟」であることを考えると、
25条への岡山の貢献はナカナカのもの!
(若干無理がある?)
というか、岡山県人は、それを自覚せねばいけません!
25条は、岡山なんだ!(笑)


『独創の方法』(井尻正二、玉川大学出版部、1976年)


6月号の『学習の友』に書く原稿を考える
素材として読んだ本。
井尻さんは、古生物学、歯学、地質学が専門。
著書は膨大な数がある。

前半はかなりのメクリ読み。
後半がためになった。

ちなみに、
「独創を生み出すには」をまとめると、こういうことである。

①まず実践、である。

 「実践を媒介にした科学以前の経験の蓄積が、独創の
 基礎ともなり、底辺ともなるのである。そのために、若い
 年代のときに、豊かな自然や広い社会の経験をつみ、
 この基礎と底辺を拡大するように心がけることが絶対に
 必要である」

②すべての基礎は感覚(感性)である。

 感性にもいろいろある。
 「感性とは、感覚器官を通して客体を反映し、感覚器官を
 通して反応(作用)する思惟能力である」
 この種の感性は、遺伝的、自然的基礎に由来する。
 こちらは、どちらかといえば、受動的な感性である。

 第2に、
 「社会的な、人間的な感性」というものがある。
 こちらは、能動的な感性といえる。
 「社会を構成し、生産労働をする人間に、歴史的に
 きずきあげられてきた感受能力」ということ。

 これらの感性は、科学の基礎となり、
 独創の契機となる。
 そして、これらの感性は、「鍛える」ことができる。

③しごきに耐える。

 「私は独創力も人間的な努力で身につけることが
 できると確信している。そしてその第一は、『しごき
 に耐えること』、すなわち『訓練をいとわないこと』に
 あると思われる」

 独創につながる訓練の意義について。
 「科学にしても、芸術にしても、はたまたどんな職業に
 しても、その道の先輩たちがきずいてきた成果を伝承
 することなしには、何事も成立しないし、発展しない、
 ということである。そして、このような先人がもつ知識・
 技術・蓄積などを体得するためには、やはりそれ相当
 の訓練が必要である」
 「このような訓練によって、私たちの思考と反応が条件
 づけられる」

④量から質へ。

 「自分の専攻するテーマに関係のある資料を、標本で
 も、文献でもなんでもいい徹底的にあさって勉強するこ
 とは、まさに量から質への転化として、独創をよびおこ
 すゆえんである」

 「こうした資料の蓄積は、頭の中でも行うことが必要だ
 と思われる。それには、できるだけたくさんの文献を
 読むことと、四六時中、問題のテーマを考え続けること
 -たえず、そのテーマに関心をよせていること-が大
 切になってくる」

⑤否定的精神。

 「実践の問題にしろ、感性の問題にしろ、しごきの問題
 にしろ、その背後に“なにくそ”という否定的精神がそな
 わっていなければ、その機能を十分に発揮することは
 できないと思う」

 「私は否定的精神の『否定』という言葉の意味をつぎの
 ように解している。(ⅰ)まず否定はたんなる破壊やもの
 ごとを無にするような否定ではなく、制限つきの否定であ
 る。(ⅱ)つぎにそれは、プラスの側面を保持する(肯定
 する)という否定でなくてはならない。(ⅲ)そして最後に、
 その否定によって、ものごとがその命脈にそって一段と
 発展するような否定でなくてはならない、ということである」

⑥根本は思想である。

 「思想というものは、当面するすべての事件や経験を、
 統一的に、体系的に考え、かつ解決していく力の源で
 あって、このような力が逆流すると、新しい組織づくり、
 新しい発掘法の考案、その結果としての新しい発見、
 新しい仮説の発想といったぐあいに、すべての独創に
 結びつくものである」


以上、私が線をひっぱった所を中心に、
書いてみました。参考になりましたか?
さて、この学びが活きるかどうか。
それはまだ、自分にもわからない(笑)。


『井尻正二選集 7 随想-感性と思想』(大月書店、1982年) 


感性とは何か?を考えるために
買ったのだけれど、あまりそういうことについて
書かれてはおらず。がっくり。

が、思わぬところで「おお!」となる。
それは、「ヒトの手のふしぎ」という短い文章だ。

最近、私は「手」にこだわっている。
人間の手は、人間らしさを学ぶ格好の
材料である、と思っている。
それは、ほんとうに、いろんな意味として。

でもって、「手」にまつわる話に飛びつくのが
最近の私なのであります。

たとえば、
相方が購読している『看護実践の科学』という雑誌がある。
(相方は看護師ではありません)
私も時間があるときにチラチラとながめている。
とても学ぶことが多いからである。
で、『看護実践の科学』4月号に、講演のお知らせで、
川島みどりさんが、
「手からはじまる看護-ふれる手 いやす手 あいだをつなぐ手」
というテーマで話をするというのが載っていた。
これはかなり興味津々である。聞いてみたい。
そんでもって、これをヒントに、
「手からはじまる労働組合論」を、考えようとたくらんでいる。
これは、おもしろいよ(自画自賛)。

以上は横道話だが、
井尻さんの文章に戻ると、
「人間の手はなぜ5本なのか」という問題は、
3億年も前に由来している、という話。
(40年前の研究到達なので、今は違うかもしれませんが)

また、ヒトとサルの手の違いには、「なるほどぉ!!」と
興奮しました。やはり人間の手はすばらしい。

・・・という、目的以外の学びに
出会えた本でありました。

「教育とは、まず感動をあたえること」という
井尻さんの信念にも、共感しました。




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コメント

本文とはあまり関係ありませんが,倉敷への米軍の空襲について。

米軍が,京都や奈良といった古都,倉敷など美術品のある都市などを空襲しなかった,とういのは,戦後,米軍は人道的だと宣伝するために捏造し,広く流布された話です。
日本では,この宣伝が今でも多くに信じられている。広島でもそうだ。

米軍は日本の都市を人口の多い順に180をリストアップ。それに,建物が密集し,燃えやすいか,軍需工場,輸送施設,都市の大きさ,夜間レーダー爆撃が可能かの5点の視点をいれて,空襲順位をつけて,その順番に焼夷弾による都市空襲をしています。64番目の都市を空襲が終わった段階で8月15日となったわけです。リストでは奈良(人口5.7万)は80番。古都であっても目標からはずされていません。

倉敷はどうだったのか?まず,その当時市制だったのか?まだ倉敷町であったら,そもそも空襲リストにはいっていない。市制だったら,人口は?
おそらくリストのかなり下のほうだったのでは。

焼夷弾空襲リストからはずされた都市は,原爆目標の都市(広島,小倉,京都,新潟の4つだけ),夜間のレーダー空襲になじまない都市15(長崎,久留米,会津若松など),B29の航続距離によるもの17(北緯39度線以北)だけです。長崎が原爆リストにあがったのは,夜間空襲リストからはずされていて,空襲されていなかったので,急遽7月21日に原爆リストに入れられた。そのため,長崎への原爆投下練習は,まったく行われていない。8月9日はぶっつけ本番状態。逆に8月6日以降の原爆投下訓練は京都目標の訓練しか行われていないのです。

水島の空襲は,軍需工場への昼間爆撃で,夜間焼夷弾都市空襲とは別の空襲です。

といった話が,先日書き込んだ「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」(朝日文庫)に書かれていますよ。

投稿: あきやん | 2008年4月 2日 (水) 22時27分

なふほど。
あきやんさん、ありがとうございます。

思い込みが間違った認識を生む典型ですな。
たしかにこの本でも、空襲を逃れた叙述のところは、
「という話がある」「○○らしい」という書き方で、
根拠が乏しかったので、「うーむ」と思ったのですが、
まあ、そんなものかな、と思ってしまったのでありました。

ご紹介いただいた本はさっそく先日古本で注文して、
今日あたり届くのではないかと思います。
さらに精進いたします。

投稿: 長久 | 2008年4月 3日 (木) 10時09分

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