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2008年3月26日 (水)

原爆を語りきることの難しさ

きのう(25日)は、倉敷医療生協労組の
みんなの学校
の4回目がありました。
参加は3名と残念ながらこれまで最少。
しかし! 1年目の薬剤師さんが始めて参加
してくれるなど、いいこともありましたcatface

Img_1706
 写真もちっちゃくしてみました(笑)
 3人ではやはりさびしいですね…。

講義は、「1人ひとりに起きたこと-原爆の実相を伝える力」
でした。
これまでも、原爆の講義は何回かしたことが
ありましたが、きのうの講義を準備するに
あたって、あらたにいろいろと学習をし、それを反映させました。

が、原爆のことを短時間に語りつくす、
などということは到底できないことでありまして、
大幅にポイントをしぼっての講義となり、
取り上げられない問題も多く残りました。

また、医療従事者のみなさんへの話なので、
広島の爆心地となった島外科病院の話や、
「1人ひとりに死はあったのか?」などの話もしてみました。

放射能の問題についてもイマイチ理解が
正確でないので、もっと勉強しようと思っています。


では、以下、講義のレジュメです(やはり長い)。

はじめに:原爆の実相を「つかみきる」ことはとても難しい。
   
①瞬時に都市と人間を壊滅させた「瞬間性」
   
②戦闘員と非戦闘員、老若男女、国籍も区別なく殺傷
    した「無差別性」
   
③すべての生物と、生物の生きてゆく環境に対する徹底的
    な破壊「根絶性」
   
④被害が人間の身体だけでなく、精神・生活にもわたる「全面性」
   
⑤被害の影響が長く続き、場合によっては世代をこえて
    影響する「持続性」


一。1人ひとりの人間の上に、原爆が落ちてきた
 
1。原爆
爆はなぜ投下されたか
  
◇第二次世界大戦後の世界情勢をにらんで-対ソ連を意識して
   
*原爆投下する都市の基準は、①日本人の徹底抗戦の意志を
    くじくことができるような場所、②軍事的性格をもち、かつ空襲
    の被害が少ない都市、③原爆の威力を正確に判定できるだけ
    の広さのある場所、とされた。
   
*当初は18の都市が研究対象とされ、投下目標の第1に京都、
    第2に広島、第3に小倉、第4に新潟とされた。その後、京都と
    新潟がはずされ、長崎が加わった。
   
*8月9日は、当初、小倉へ投下予定だったが、天候不良のた
    め、長崎に変更された。
   
*広島へはウラン型原爆「リトルボーイ」、長崎へはプルトニウム
    型原爆「ファットマン」。

  
◇なぜ、広島と長崎か
   
*広島は、西日本の軍事戦略の中心都市、侵略戦争の拠点だった
   
*軍艦や魚雷の製造都市だった長崎

  
◇どういう人たちの上に落とされたか
   
*広島・長崎の被害地図(資料①)-街の中心部をねらって
   
*3分の2は、子ども・女性・お年寄りという、まったくの非戦闘員
   
*広島の爆心地付近、街の様子(資料②、③)

 
2。死の放射線-爆発前
  
◇100万分の1秒-原爆が炸裂する前
   
*猛烈な核分裂反応により、原子爆弾をつきぬけて、爆心地一帯
    に、中性子の矢がささった。中性子は、あらゆる物質を通り抜け、
    地上に達し、あらゆるものを突き刺した。また、中性子は、空気
    や水、土などあらゆる物質の原子核にぶつかり、核反応を引き
    起こし、新たな放射線(ガンマ線)を生み出す。(資料④上)

     
「爆心地にいた人々は、100万分の1秒に発せられる最初の
     中性子から、それを避けることなく浴びました。そこにいた人は、
     いわゆる爆風とか熱戦とか閃光がなかったとしても、全員が亡
     くなっていたであろうと推定されるわけです。誰1人避けることは
     できなかったのです」 
(『原爆投下・10秒の衝撃』NHK出版より、
     広島電機大学葉佐井博士の話)

  
◇『朽ちていった命-被曝治療83日間の記録』
                        (新潮文庫)から(資料④下)

  
◇「放射能が一生、追いかけてくる」-原爆の悪魔性
   
*「あの日」で終わりではなく、「あの日」が出発点

 
3。火球の出現-閃光と熱線、衝撃波

    
「一瞬、目も眩むような閃光、あっと思った瞬間、思わず左
    後方上空を見た私の目に、黄色とも、橙色ともいえない火の
    玉を見た。左の顔面に熱い!と手をやったとき、暖かい風に
    吹きあげられ、身体が浮き上がって、右前方に走るようにの
    けぞり倒れた。その距離は5、6メートルはあるだろう。そこま
    では覚えていた」
     
(高野眞さん、当時27歳-爆心地から南東へ2キロ、比治山)

  
◇広島原爆の「火球」-3秒間の巨大なエネルギー放出(資料⑤)
   
*100万分の1秒までに、爆弾内部の温度は250万度。原爆が
    炸裂、火球出現。
   
*100万分の15秒、温度は40万度。太陽の70倍近い高温。
    火球の直径は20メートル。
   
*0.2秒後、火球は直径310メートルに膨張。最も大きく、明る
    く見える瞬間。この時間から、2秒までの間に熱線の90%が放
    出される。大量のガンマ線が放出され、空気と反応して紫色に
    見える。
   
*熱線は地上に突き刺さり、瞬時にあらゆるものを焼いた(溶か
    した)。爆心地に近い人ほど、この熱線による火傷の被害が甚
    大だった。爆心直下の場合、その温度は1千数百度~2千度
    以上になったと予想される。広島の場合、爆心地から
2,300mま
    で「閃光やけど」の被害が出た。

  
◇衝撃波による建物の破壊
   
*火球によって、まわりの空気が加熱され、急速に膨張。膨張
    するとき、まわりの空気が一気に押し出される。このとき生ま
    れるのが衝撃波。
   
*火球直下の猿楽町と原爆ドームはどうなったか(資料⑥)。
    たった3秒のあいだに。

 
4。衝撃波の広がり
  
◇3秒から10秒のあいだに、広島市街は破壊された
   
*衝撃波は、音速以上の速さで、中心部から広がった。爆発の
    3秒後に1.5キロ、7.2秒後に3キロ、10.1秒後に4キロの
    地点に到達したと予測される。(ふたたび資料①)
   
*河村弘康さんの体験(爆心地より2キロ、資料⑦)

  
◇長崎原爆の爆発エネルギーは、広島原爆の2倍近くあった

 
5。爆心地の人たちの「死」について
  
◇そこに、「1人ひとりの死」はあったのだろうか?

    
「ジェノサイド(大量殺戮のこと-長久)のおそろしさは、一時に
    大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、
    ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。
    …人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければなら
    ないものなのだ」 (石原吉郎『望郷と海』ちくま学芸文庫)

  
◇爆心地から500mのところに家があった当時18歳の女性の手記

    
「両親のことが気にかかり、3日目、やっと市内に入ることが
    できました。私の家は広島大手町三丁目、爆心地から
0.5キロ
    ぐらいの所です。途中まだ道路のアスファルトはやわらかく、
    ゴムぐつや下駄でははまり込みそうで思うように歩けないので、
    会社でワラぞうりをもらってまいりました。途中はもう右も左も
    やけどした人、亡くなっている人、どこが顔か、口かまったくわ
    からなく、まっくろにやけただれた人、・・・とにかく道路はしかば
    ねの山でした。
     
何人の人々の死体を踏んだことか、心の中で(すみません、
    ごめんなさい)手を合わせながら、両親を探すのに精一杯だっ
    たのです。
     
・・・川という川にはまっかにやけただれた、ふうせんのように
    ふくれ上がった人間のしがいがいっぱい浮び上がっていました。
     
・・・私の両親を、5日目やっとみつけることができました。もう
    人間の炭になってどうすることもできませんでした。2人とも首は
    なく、手、足らしい形はありました。あおむけに片足を立てたよ
    うな形で、台所らしい場所で死んでいました。父親は庭の防空
    壕の土の中で死んでいました。
     
とにかく書きたいことは山ほどありますが、思い出すとくやしさ、
    腹立たしさが増してまいります。私は、毎年くる8月6日、思い出
    したくありません」
    
(『あの日・・・ヒロシマ・ナガサキ死と生の証言より』、
                           新日本出版社、
1995年)

  
◇広島での建物疎開(空襲に備えての道路拡張)学童の悲劇
   
*作業中に被爆、殺された学徒は約6000人。
    
爆心地付近(現在の平和公園一帯)では、9校、約2,000名が
    全滅。戦争推進のため
の「総動員」の悲劇でもある。
   
*いったいどんな「死」だったのか。
遺族の苦しみ。

     
「新大橋(爆心から約600m-長久)のあたりに行くと、全身
     火傷で水を求めうごめいている中学生、女学生。倒れたま
     ま、『おじさん、水をちょうだい』とあちこちから呼びかける声。
     だれがだれやら、親兄弟が見ても見分けがつかないだろう。
     真っ黒に焼けた唇は、ぷうと大きくふくれあがり、顔が腫れ、
     目がつぶれ、わずかに開いているばかり。あたりにはシャベ
     ル、鍬、バケツ、救急袋、弁当箱などが散乱していた。何百
     という無数の死体だった。橋の上、橋の下にもごろごろと人
     が転がっている。巨大な瀬川倉庫は倒壊していて紅蓮(ぐれ
     ん-猛火の炎のたとえ)の炎があがっていた」
            (6日夕方。小川春蔵さん<当時33歳>の証言)

  
◇「人間」と「人間らしい死」を、原爆は否定した
                     -医療従事者として考えてほしこと
   *
「あの日」亡くなった人で、家族に看取られながら死ぬことがで
    きた人は、わずか4%。
   
*遺族は、肉親の最期のときをさまざまに想像して苦しみ続けている。
   
*長崎の爆心地から北方700メートルにある山里小学校の
    防空壕の中で被爆した少年の回想。「運動場のいちめんに、
    人間がまいてあるみたいだった。運動場の土がみえぬくらい
    倒れていた。たいていは死んでしまって、動かなかった」。
   
*広島の詩人峠三吉は、愛らしい女学生の死を「にんげんか
    ら遠いものにされはててしまって」とうたい(資料⑧)、「にんげ
    んをかえせ」と叫んだ。

 
6。火事嵐と黒い雨
  
◇爆発後20分すぎると、強風にあおられて、広島市内は火の
   海に(火事嵐)
   
*中心部は熱による上昇気流。
  
◇30分後には黒い雨が(放射性含有物をふくむ)

 
7。広島の爆心直下、島外科病院の「あの日」
  
◇いつも患者でいっぱいだった
   
1933年に開設。400坪の敷地に、レンガ
造り二階建て、中庭
    を抱えてコの字形に
約50の病室があった。低料金で評判も
    
よく、いつも患者でいっぱいだった。
   *
8月6日、院長の島薫さんは、世羅郡甲山
町の知人の病院に
    出張手術に来ていて、偶
然にも助かる。「広島が全滅」の連
    絡をうけ、同行の看護婦とともに夜、広島市内に入る。島さん
    が病院の姿を目のあたりにするのは、7日午後のこと。「あん
    なに堅固であると思っていた私の病院が紙のように破壊しつ
    くされた」(遺稿集)。
   
80人余りの職員、患者はほぼ全員が即死。島さんは廃墟の
    なかからわずかに使えそうな救急資材を手に、被災者の救
    護活動に夜を徹して取り組む。多くの負傷者が訪れた。みん
    な裸身だった。疲れ果て、負傷者の間に身を横たえ、眠る間
    もなく耳に入ったのは、助けを求める少女の声だった。川を
    隔てた方角から聞える悲痛な叫びに眠りを中断されながら、
    島さんが目覚めたのは8日午前5時頃。手当ての甲斐なく、
    負傷者の多くは亡くなった。島さんは「数週間前には呉が、
    そして今度は私の町広島が!私の眼には涙が一杯たまっ
    た。『戦争とはこんなものか』と自問した」と回想している。
   
*廃墟の中から、病院が再建されるのは、被爆から3年後の
    こと。爆心地とされた中庭には「記念になるものを」と紅い
    バラをはわせた4本のやぐらが建てられた。平和のバラ」に
    託した島さんの思いはどういうものだったのか。島さんが残
    した言葉・・・「私の新病院は平和と貧しき者、窮乏したる者を
    世話することにささげられているのである」(遺稿集)。
    
(以上は、『社史が語る 原爆・ヒロシマ』新日本出版社、2003年より)

  
◇医療従事者も、医学も、原爆の威力と放射能のまえには、
   無力だった
   
*そのときの「悔しさ」は、どれほどのものだったろうか
   
*戦争や核兵器とたたかうことは、医療従事者の使命(資料⑨)

二。被爆者の「心の傷」を追って
 
1。こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社)から
  
◇生きのびてしまった罪の意識

   
ぜんたいこの街の人は不自然だ 誰もあのことを言わない
   
いまだにわけがわからないのだ
   
わかっているのは「死ねばいい」と 誰かに思われたということ
   
思われたのに生き延びているということ
   
そしていちばん怖いのは あれ以来
   
本当にそう思われても仕方のない
   
人間に自分がなってしまったことに
   
自分で時々気づいてしまうことだ   (P15~16)


   
そっちではない
   
お前の住む世界は そっちではないと 誰かが言っている
   
8月6日
   
水を下さい 助けてください
   
何人見殺しにしたかわからない
   
堀の下の級友に今助けを
   
呼んでくると言ってそれきり戻れなかった
   
救護所には別の生物のように
   まん丸く膨れた集団が黙って座っていた
   
そのひとりが母だった
   
(略)
   
死体を平気でまたいで歩くようになっていた
   
時々踏んづけて灼けた皮膚がむけて滑った
   
地面が熱かった 靴底が溶けてへばりついた
   
わたしは 腐ってないおばさんを冷静に選んで
   
下駄を盗んで履く人間になっていた
   
(略)
   
あれから十年
   
しあわせだと思うたび
   
美しいと思うたび
   
愛しかった都市のすべてを思い出し
   
すべて失った日に引きずり戻される
   
お前の住む世界は ここではないと
   
誰かの声がする          (P23~25)

 
2。被爆者の「心の傷」
  
◇被爆者の記憶の障害-見ているのに、見ていない
   
*「あの日」の記憶の欠損

     
「見ても見えないという現象は、いきなり襲った『恐怖・驚
     愕』、想像することさえできなかった事態の出現(一瞬に
     して消えたまち、大量の異形の死体)に対する自我防衛
     反応と考えられる。それは本能にのみしたがった逃避行
     動であり、視角入力の拒否である。これらを通常のごとく
     入力していたのでは、身がもたないからである。このメカ
     ニズムはほかの『不意打ち・大災害』でもおこっている」
     
(『ヒバクシャの心の傷を追って』中澤正夫、岩波書店、2007年)

  
◇「見捨て体験」と「見ても感じない(感情麻痺)」-自責感、自己査定
   
*証言から(資料⑩~⑫)

     
「自責感をともなう鮮明な記憶は、いくら経っても封印され
     ることはなく、逆に強化される。それは相対化されることを拒
      むきわめて『個人的なもの』となり、その結果、さらに被爆者
     を苦しめ続けるという悪循環におちいっていく」(前掲書)

     
「軽傷で余力のある人が大量の死体を見、運び、名前も確
     認せず焼き、うめる。非日常的な光景である。日常的な弔い
     につきものの、情感の高まりをもっていては作業できない。
     死者に個人を感じない、人間を感じない、『麻痺状態』でなく
     てはできない。その意味で、感情麻痺も本能的に作動した
     自我防衛機制といえる。喜怒哀楽を感じるメカニズムにバ
     リアを張ってしまったのである。それでもあとになって『モノの
     ように扱ったこと』『何にも感じなかったこと』は、人間として
     許されないと、被爆者の心に深い傷として刻印されていくの
     である」 (前掲書)

  
◇いまなお続く、引き戻らされ体験
   
*ちょっとしたキッカケで、「あの日」の状況が、恐怖と自律神経
    症状をともなって脳裏に再現してしまう。フラッシュバック。
   
*場所、音、光、臭い。
   
*病気になること-「いつ配達されてくるかわからぬ死を待つ人」
   
*「体験を語る」ことは、強烈な「引き戻らされ」のキッカケとなる。

  
◇サイレント・マジョリティ
   
*広島にて被爆した元軍医、肥田舜太郎氏によると、いつでも
    求められれば自分の被爆体験を語れる人は、数千人のレベル
    であろうという。これは、被爆者の5%ほど。
   
*いまも自分が「被爆者である」ことを語れないは、40~50%とい
    われている。
   
*原爆と自分を対峙させることにより、反原爆の思想を育ててい
    く人も多い。それらの人が被爆者運動を引っ張り、核兵器廃絶
    のたたかいに立ち向かっている。しかし、そこまで踏み切ること
    がどんなに困難なことかを、私たちは忘れてはならない。
   
*サイレント・マジョリティ、いまも原爆のことを語れない人たちの
    中にこそ、「心の被害」の本質がある。

  
◇被爆者には今、「ここまで生き残ったことの意味」を問う意識が
   生まれているという

さいごに:今日の話は「実相」のごくごく一部。ふれられなかった
      ことが大部分。

      
被爆後の生活苦の問題。原爆孤児、原爆孤老。偏見と差別
      の問題。原爆小頭症。外国人被爆者。内部被曝の問題。被
      爆者支援の国のあり方。原爆症認定訴訟。現在の核兵器を
      めぐる問題・・・。これからも学び続けてほしい。

さいごの最後に-被爆者のたたかいが、私たちに教えてくれるもの

     
人間を、人間性を否定するものにたいしての怒り
     
核兵器廃絶、平和の活動を通じて、人間をとりもどしてきたこと
     
復しゅうではなく、人と人が信頼しあうこと
     
原爆を落とすのも人間であり、なくすのも人間ということ


以上。


参加者の感想。


「今日初めて知ることも多かった。戦争、原爆の
ヒサンさというものは今まで色々と聞いてきました
が、被爆者で生き残った方々たちの『心の傷』と
いう問題も大きいなと感じました」

「原爆の恐ろしさ、というと、熱や爆風、放射能の
ような、身体的な被害を一番に思い浮かべますが、
生き残った人たちに重くのしかかる罪悪感や、記
憶障害、PTSDなどの精神的な被害についても、
私たちは知っていかなければならない、と感じました」



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コメント

原爆については,すべての実相をつたえるのは難しいですね。特に,放射能については。
「なぜ,廣島・長崎だったのか」は,多少異見あり。このあたりを調べてまとめた本としては「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」(吉田守男,朝日文庫)がおすすめ。私はこの本をもとに碑めぐりガイドの導入部分で原爆投下にいたる経過,そしてなぜ廣島だったのかを話しています。
29日土曜に神戸女学院大学石川ゼミの女子大生2人を招いての講演。参加者は38人。感想文をみても,いい講演でした。もう少し宣伝に力を入れ,もっと多くの人に聞いてもらいたかった。女子大生は就職活動のさなか,にもかかわらず「広島なら」との気持ちで無理をして来てもらい,本当に感謝。
「日本の戦争講座」もあと1回,4月12日の「民衆の視点から見た戦争」沖縄戦についてを残すのみ。どういう話にするか,まだレジュメも確定していない・・・

投稿: あきやん | 2008年3月30日 (日) 22時54分

あきやんさんありがとうございます。

なぜ広島だったのか、については、
たしかに私も勉強不足で、あまり
詳しくは話ができませんでした。
ご紹介いただいた文献にあたってみたいと
思います。

土曜日もおつかれさまでした。
山口県学習協の総会が同じ日にあり、
広島を通過するさい、「今日の成功を
祈ります・・・」と念じておきました(笑)

あきやんさんの講義もぜひ1度聞いてみたい
ですねー。

投稿: 長久 | 2008年3月31日 (月) 09時40分

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