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2007年11月 9日 (金)

沖縄戦とは何だったのか

きのう(8日)は、74期岡山労働学校の第5講義が
あり、19名が参加しました。


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「沖縄戦とは何だったのか-歴史から消せない事実」
ということで、講師は私が担当しました。

やはり、思い入れが強いのか、15分オーバーで、
しかもあとからふりかえれば、「あれもこれも言えなかった」と
いうことが多く、まだまだ力不足でした。
でも、参加者のみなさんにはある程度伝わったようでした。


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 今回の講義は、
 琉球新報社が
 2005年にだした
 『沖縄戦新聞』を
 使いながら、
 沖縄戦の全体像を
 追っていく形にしました。





以下、講義の概要。



はじめに:『新しい歴史教科書』(市販本)における沖縄戦の叙述
      
点ではなく、線で沖縄戦を学び、考える
      
『沖縄戦新聞』(琉球新報社、2005年)も使いながら



一。沖縄戦の基本的性格
 
1。日本軍にとって沖縄は「捨て石」に
  
◇本土での決戦作戦計画「帝国陸海軍作戦計画大綱」
                             (
45年1月21日決定)
   
*沖縄や硫黄島を含む小笠原諸島は、本土決戦の準備が
    整うまで「米軍に出血を強要する持久作戦」と位置づけられた。
  
◇「もう一度戦果を挙げてからでないとー」
   
*天皇が拒んだ終戦(2月14日の時点)

 
2。国内では唯一の軍民混在の壮絶な地上戦
  
◇硫黄島でも地上戦は行われたが、住民はあらかじめ
   強制疎開させられていた
  
◇約20万の沖縄戦戦没者のうちの約半数が住民
   
*沖縄戦における戦没者数(援護資料。朝鮮人は不明)
    
・県外出身日本兵 65,908人
    
・沖縄県出身 軍人・軍属 28,228人
    
・一般住民(戦闘参加者ふくむ。推定) 約94,000人
      
→日本側戦没者合計 188,136人(うち沖縄出身者122,228人)
    
・米軍 12,520人


二。沖縄戦への道(1944年3月~1945年2月)
 
1。沖縄にやってきた日本軍-軍隊のいなかった島に
  
◇第32軍の創設-航空基地建設とその防衛が主な任務
   
1944年3月に第32軍創設-南西諸島の防衛を担当
   
*沖縄に本格的な飛行場建設はじまる
   
*次第に本格的な実戦部隊も配備されてくる
    
-中国戦線を経験した精鋭部隊が主力に
    
-が、沖縄戦目前に、最精鋭部隊(第九師団)を台湾へ抜かれてしまう
   
44年10月上旬までには、主な飛行場のほぼ基本的な施設は完成
    
→が、これらの飛行場は結局日本軍に使われずに、
     米軍に占領されることになる

  
◇徴用と供出-住民を総動員して、全島要塞化
                         (住民をスパイ視する背景にも)
   
*飛行場建設や陣地構築などの労働力として、
     現地住民を徴用-1日平均5万人
   
*土地・資材・食料なども強制的に供出させる
                         (住民との関係もしだいに悪化)

 
2。サイパン島の陥落-沖縄戦の悲劇の予兆
  
44年7月、サイパン島(マリアナ諸島)が陥落
   
*米軍の沖縄上陸が必至の情勢に
   
*サイパン島陥落の意味-本土爆撃が可能に
  
◇サイパンでの悲劇は、沖縄戦の予兆
   
*日本軍の「玉砕」
   
*約2万人の日本人がいたが、約半数が犠牲に
    
・住民虐殺、住民スパイ視、投降阻止、自決強要、壕追い出し、
     食料の強奪・・・沖縄戦でおこったこと
のほとんどすべてがおき
     ていた。「集団自決」も。


     <「集団自決」は、他の地域でも起きていた>
     
・サイパンだけでなく、テニアン、フィリピン、旧満州でも。日
      本軍が敗北していくなかで、日本住民が日本軍と一緒にい
      た地域で起こっている。日本軍がアジアの民衆に行った残
      虐行為が、日本人の「集団自決」を引き起こす大きな要因
      となっている。日本軍全体の体質に関わる問題でもある。

  
◇沖縄住民の疎開はじまる
   
44年7月、沖縄住民10万人を本土と台湾への疎開させる方針が決定。
    
・疎開は基本的には戦場で邪魔になる者を立ち去らせることが目的
    
・しかし、現地住民の根こそぎ動員との矛盾も
   
*学童疎開船、対馬丸が米軍潜水艦の攻撃を受け撃沈
    
・乗船者1788人のうち、学童775人ふくむ1418人(氏名判明分)が犠牲に

 
3。「10.10空襲」
  
◇約9時間にわたり、5次にわたっての大規模な空襲
   
*米軍機のべ1396機が出撃。5百トン以上の爆弾を投下。
   
*飛行場や港湾などの軍事拠点だけでなく、民間施設への無
    差別爆撃も。那覇の
9割が焼失。
  
◇守備軍への信頼もゆらぐ

 
4。根こそぎの戦場動員
  
◇軍は住民の北部疎開要求-実態は役に立たないものを
    放り出す棄民政策
   
*避難者は約8万人と推定(うち、餓えやマラリアで約2万人が死亡と推定)

  
◇本土からの増援部隊の可能性もなくなり、すべて現地でまかなう必要に
   
*沖縄住民(主に17歳~45歳の男子)にたいして大規模な防衛召集
   
*防衛隊は沖縄戦の戦闘協力の主役
    
・約2万5000名が召集され、うち1万3000名が戦死している(学徒隊
     の戦死者の10倍以上)。にわか兵。多くはまともな武器を持つこと
     もできなかった。
    
・一家の戸主であった人も多く、軍隊の一員であると同時に、他面
     では住民のリーダーであるという二重の性格をもっていた。戦場
     での住民の行動に大きく影響をおよぼした存在(「集団自決」に関
     与、あるいは集団投降を説得など)でもある。
   
*が、この「防衛隊」についての研究は資料はまだまだ不足しているの
    が現状。

  
◇学徒2千数百人を動員(現在の中学生~高校生にあたる年齢)
   
*男子学徒は鉄血勤皇隊や通信兵として(弾薬運びや実際の戦闘にも)
   
*女子学徒は看護要員として
   
*動員された者の約半数あるいはそれ以上が命を失う



三。沖縄戦の実相(1945年3月~7月)
 
1。圧倒的な兵力の差
  
◇アメリカ軍は艦艇数1500、兵員54万8000人(うち
上陸部隊18万人)の
   沖縄
攻略部隊を組織し沖縄に向かった。3月26日、慶良間諸島の座
   間味島など数島に
上陸。4月1日には守備陣
の薄い本島中西部で、飛
   行
場のある読谷村と嘉手納町を狙って上陸し、日本軍が
水際作戦を
   放棄したため、
米軍はその日のうちに北・
中飛行場を確保した。

 
2。慶良間諸島への米軍上陸
  
◇最初の「集団自決」
   
*軍の強制が背景に
    
・手榴弾を配る
    
・投降を許さない
    
・住民を一か所に集める
   *日本軍がいなかった島では米軍が上陸してきても大勢
の住民が
    投降して助かって
いる。

 
3。沖縄本土への米軍上陸
  
◇無血上陸-日本軍はすでに撤退、取り残された村民

  
◇明暗分けた2つのガマ
   
*チビチリガマ
    
・住民83名が「集団自決」
   
*シムクガマ
    
・ハワイ移民帰りの2人が投降を説得。避難していた
1,000人が
    集団投降。

  
◇米軍上陸により本島は南北に分断

  
◇伊江島での戦闘は沖縄戦の縮図といわれている

 
4。南部撤退
  
◇日本軍の総攻撃の失敗
   
*多くの住民が巻き添え
   
*沖縄戦は事実上敗北

  
32軍、首里司令部を放棄
   
*南部へ撤退、持久戦方針へ
   
10万人以上の住民が戦闘に
巻き込まれることに

 
5。地獄の戦場-軍民混在のなかの悲劇
  
◇日本軍による住民虐殺、壕追い出し。「集団自決」。
   米軍による無差別攻撃。
  
◇魂魄の塔には、4万体もの身元のわからない遺骨が
  
6月23日に32軍牛島司令官の自決によって、組織的戦闘は事実上終了
   
*沖縄県ではこの日を「慰霊の日」として、独自の休日としている


四。沖縄戦以後-米軍による基地化
 
1。本土爆撃の出撃拠点として基地を整理・拡張

 
2。敗戦後も米軍の占領下に
  
◇以後、27年間も
  
1972年の復帰で沖縄に適用されたのは「平和憲法」ではなく、
   「安保条約」だった。
   
*沖縄の「痛み」を想像できない日本人の弱さは今も続いている

 
3。沖縄の人びとの戦争責任を追求することの弱さも
  
◇日本軍に協力した沖縄の人びとの責任
  
◇沖縄と日本(ヤマト)の対立軸の影で
   
*それが基地温存の問題にもつながっている



五。沖縄戦から、私たちは何を学ぶべきか
 
1。沖縄戦の証言の重さを受けとめて
  
◇こうした沖縄戦の実相が公に知られてくるのは、戦後数十年たってから

    
「体験者は、まず語りたがらない。思い出すのさえ大変な苦痛
    をともなうのである。戦場の実相というものは、人間が人間でな
    くなってしまう極限状態である。そこから生きのびてきた人にとっ
    て、それはまさに地獄の記憶である。死者にとっての地獄でなく、
    生きのびてきた人びとの、その『生きざま』の中に地獄があった
    のだ。誰しも思い出したくもないし、まして平気で他人に語れる
    話ではない。たいていの証言者がその夜は一夜寝つかれなかっ
    たと告白するものだ。ある大学教授は、自分の戦場体験を妻に
    語っただけで、1週間も精神異常状態におちいって寝込んでしま
    ったという。沖縄の戦場というのは、まさにそういう想像を絶する
    生き地獄であったのだ。
     
だから、聞くほうもそれだけの覚悟がいる。語る側も聞く側も、
    どちらも心の中で血を流しながら真相に迫っていくというのがい
    わゆる『戦争体験の継承』の実際なのである」
        
(『改訂版 沖縄戦-民衆の眼でとらえる〔戦争〕』
                         大城将保、高文研、
1988年)

   
*9月29日の県民大会で自分の体験をはじめて公で語った吉川さん

 
2。軍隊の本質
  
◇住民を守らなかった軍隊
   
*「国体護持」=天皇制を守るために
   
*日本軍の構造的特質

 
3。戦場での行動・判断の分岐点-私たちが考えるべき問題
  
◇日本軍のなかにも、住民の生命を守ろうとした人もいた

    
「戦争によって増幅されたとしても、一人一人の将兵に責任
    はないのだろうか。日本兵による残虐行為には、それをおこ
    なった日本兵個人がひどい人間であったというケースもけっ
    して少なくないと思われる。たとえば、子どもや老人を含む
    住民から食糧を奪い取ったり、彼らを壕から追い出したりす
    るような行為にあっては、軍のあり方という問題だけに帰す
    ることはできず、その兵士の人間性が問われなければなら
    ないだろう。残虐行為をおこなわない良心と人間性を日常か
    ら培う努力をしているかどうか、一人一人の責任も問わざる
    を得ない。戦場において誰もがレイプするわけではない。レ
    イプをする将兵としない将兵がいる。子どもから食糧を奪う
    ような兵士がいれば、朝鮮人軍夫とわずかなおにぎりを分け
    合う兵士もいる。逃げたら家族みんな死刑だと脅す将校がい
    れば、家族のもとへ帰れと防衛隊員を逃がす将兵もいる。
     
戦争における残虐行為について議論すると、戦争になった
    ら、あるいは戦場ではみんなそうなってしまうのだというような
    説明の仕方がよくされる。たしかに戦争は人の持つ攻撃性や
    残虐性を極度に煽(あお)り増幅させてしまうのだが、そうで
    あったとしても将兵たちの判断と行動のベースになるのは日
    ごろから培ってきた一人一人の人間性である。戦場での将兵
    はけっして日常と切り離されたところにいるのではなく、その
    日常の人間性が反映しているのである。
     
・・・戦場における人々(軍人も民間人も)の意識も行動も多
    様である。もちろん、彼らがおかれていた条件もさまざまであ
    ったし、日々刻々変化していた。ということは一人一人の判断
    が求められる場が多かったということを意味する。そのことは
    一人一人の責任をも問われることを意味している」
           
(『沖縄戦と民衆』林博史、大月書店、2005年)

  
◇戦争に駆り立てようとする人、それに抗(あらが)う人
   
*沖縄戦を貫く1つの大きなテーマでもある
                  -「命の尊厳」をめぐっての対決
   
*私たち一人ひとりの日常の行動、価値判断を磨くことの重さ



さいごに:沖縄戦を知ることは、現在の沖縄の置かれている
      現実を知ることにつながる


以上。


受講生の感想いくつか。

「証言することの辛さ、重みを強く感じました。
忘れてはならない歴史です」

「今、“日本軍の強制で集団自決はなかった”
など、報道によって聞えてくるけど、きちんと
学べば学ぶほど、真実が見えてきて、知らな
かったらまちがった真実に誘導されることの
恐さも感じました。
 沖縄の人たちの生きながらに地獄を体験さ
れたことにも心が痛むけれど、家族に愛情ゆ
えに手をかけるということがどういうことなのか
を考えるととても辛い。
 戦争というものが人の心をどう変えてしまう
のか見極めつつ、自分の人間性はどうなのか
見つめなおさなくてはと思います」

「想像以上の沖縄戦の悲惨さに言葉を失い
ました。そしてあまりにも沖縄のことを知らな
すぎた自分が沖縄の人に申し訳ないと思う。
日本国民はもっともっと沖縄の歴史を学ぶべ
きだと思う」

「沖縄戦のむごさ、日本人と軍隊と沖縄…
グルグル考える。抗う人になりたい」

「沖縄戦の話を聞くと本当に心が重い。でも、
今につながっている事なんだと思う。少しでも
実践していくことが大切」



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コメント

第4講、第5講と大変お疲れ様でした。なごみでは、殆ど黙っておられたのでさぞかしお疲れだったのでしょうね。両講義とも、「戦後」に繋がる内容だっただけに、「歴史」としては習っていない時代(問題・課題)として、大変興味深いお話でした。たくさんの資料を読み込まれ、また提示された資料も大変よいものだったと思います。あの新聞840円は本当にお買い得ですね。 あと惜しむらくは、N久さん、国語力をもう少し。T田先生でなくとも、「?」と思ったところがあったように感じました。さて、どこだったか解るか?T口!

投稿: S本Y郎 | 2007年11月 9日 (金) 17時22分

S本さん、ありがとうございます。

国語力は自覚しております。基礎学力がないもので(笑)
あと、講師をしていると、自分では認識せずに言いまちがえている
ことが結構あるものなのです。次のことを考えながら資料を読む
こともありまして…。失礼いたしました。

なお、なごみで私がしゃべらないのは、
いつものことですので、お気にせずにお願いします(笑)

投稿: 長久 | 2007年11月 9日 (金) 18時36分

う~ん,やっぱり聞きたかった。
しかし,こちらでは,労働学校本日の担当講師が体調不良で,急遽臨時代行講師「史的唯物論」を話した。とりとめのない講義になり反省・・・

重箱の隅をつついて申し訳ないが
「学童疎開船対馬丸」
正式には「陸軍徴用貨物船」。中国から沖縄へ62師団主力を輸送し,その帰りに疎開者を乗せた。護衛の軍艦もつき,対馬丸にも,防御用の高射砲・山砲が装備されている。そして,非戦闘員が乗船していることを示すものもなにもない。私は「疎開船」と言うから,非戦闘員が乗っており,国際法上攻撃できないマーキングがしてあるものだと思っていたが,対馬丸資料館でその事実をしり,驚いた。悲劇は事実であるが,戦時国際法の中でそれをさける方法もあったのではないだろうか?なにしろ,日本軍は敵の攻撃を避けるため,国際法上保護されている病院船を軍輸送船代わりにこっそり使っていた(橘丸事件)。対馬丸事件は,もう少し研究してみたい。

「日本軍の精鋭部隊が沖縄にいたか」
陸軍の部隊編成を見れば一目瞭然。
62師団・・・丙種編成の特設師団。正規の軍隊と正面から戦闘する部隊ではなく,中国で治安維持のために編成された部隊。中国で治安維持=住民支配を行ってきている。特に共産八路軍の拠点が任務管轄にあり,住民への報復事件なども日常におこなっている。
24師団・・・乙種編成の3単師団。正規の軍隊との戦闘に対応する編成。ただし,24師団は歩兵団司令部がなく,各大隊の中隊数が正規編成より少ない。正規編成より,意外と小規模。実戦経験なし。
独混44旅団・・・主力は沖縄近海で輸送船が沈められ,ほぼ壊滅。空輸された兵と,現地徴用で数を補う。
精鋭とよべる部隊はない。ただ,62師団のように,中国で小部隊単位での戦闘経験をつんでおり,古兵を中心に臨機応変な戦闘で以外に善戦したと思える。洞窟中心の陣地戦であったこともその要因かな。

日本兵あるところに「慰安所・軍慰安婦」あり。
沖縄での軍慰安婦問題,戦場での慰安婦問題。沖縄の市町村が発行している市町村史の地図をみると,軍の駐屯しているそれぞれの集落に必ずといっていいほど,慰安所の証言が記されている。これは私もこれからの研究課題。

「さまざまな日本兵」
読谷村史の戦時関係資料集で「三人の元日本兵と沖縄」という本が出版されている。
1人は最後まで降伏せず。それを誇りに思う元日本兵。
1人は,重傷の戦友を自決させ,それを悔やんで戦後僧侶になった元日本兵。
1人は沖縄戦途中で脱走,逃げて逃げて住民虐殺の久米島に流れ着いた元日本兵。
3人は同じ部隊におり,その3人が沖縄の戦地をいっしょにめぐる記録。それぞれの日本兵の立場からふりかえる沖縄戦。一読の価値アリ。この本片手に現地を巡り,その追体験をしてみたくなります。

「軍民混在の地獄」
証言いっぱいあります。そして,ほんもののガマのなかで追体験すること。言葉を失います。

いかん・・・つつき出したらきりが無い,マニアックになってしまう・・・

岡山労働学校の開校式,記念講演で,女子大生が「軍慰安婦」のことを学び,そして本物にふれて自らの問題として同化し,変わっていく,成長していく姿をみて,沖縄の問題もそうだと感じました。学んだことを,体で感じる,そして,自分の痛みとして同化し,それを伝えていく。
まだまだ,いつまでたっても沖縄には学ぶことがつきない・・・

投稿: あきやん | 2007年11月 9日 (金) 21時41分

あきやんさん、ありがとうございます。

やっぱりまだまだ勉強不足であることを
講義をしてみて自覚しました。
ただ、私の思いみたいなものは、伝わったのかなと感じています。

沖縄の戦跡めぐりは、5年ほど前に本島で1日かけて
駆け足でまわったものと、伊江島で少しまわった程度です。
まだまだ体で感じる学びはこれからです。今後もよろしくご指導ください(笑)


投稿: 長久 | 2007年11月10日 (土) 10時06分

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